桃源郷に住んで・・・その6
すっかりブログ更新滞っていますが・・・
インスタにも載せたけど
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続きです。
世間は 何事もなく 普段の生活を送っているというのに
私たち 総勢何人いたのかなあ。
先生一家、弟さん夫婦と子供達、そして 先生の叔母さんたち一家。
その子供たち。
わたしたち スタッフ・・・っていっても
一人は 山を降りたから
私と 先輩の男性スタッフ。
親族でないのは 私たちだけだったんだわね。
山小屋で 共同生活でした。
私は 叔母さんたちと一緒でね。
始めの一週間は
いつ 地震が来るのか?って 不安な日々ではあったんだけど
そのうちに みんな
大丈夫そうじゃない?って 雰囲気がただよっていましたね。
誰も 口にはださなかったけど。
で、 そのうち 共同の炊事場ができて。
水道はもちろん無い。
電気もガスも無い。んだけど
みんなで 調理したりとかね。
嫁、姑、大姑、小姑・・・・
だいたい 女性って 台所のことで もめるので・・・
料理がとーっても上手な お嫁さんだったんだけど、
愚痴れるのは・・・ 唯一他人の女って 私だけだったからねー。
電気は あったのかな?途中からあったのかな。
はじめは大きなランタンみたいなのだったような。
もう 30年近く前なので・・・細かいところは 覚えてないや。
はじめは まいにち カップラーメン食べたので、
もう一生カップラーメンは食べたくない!です。見るのも ニオイも嫌。
(なんだけど うちの旦那様、大好きなんですよね~)
水は 大きなタンクに備蓄してたので、食用にはそれを使って。
洗い物なんかには なんと 雨水を使った!
しばらくは 台風で まいにち雨降ってたからね。
雨がやんでからは 雨水ためたの使ったのかな・・・(ギョッ)
茶碗は それで洗った気がするし
雨水で お米研いだ覚えはあるんだよ~。
もちろん 洗濯は 手洗いで
しばらくしてからは ちょっと下降りたところに 川があって
川にも洗濯しに行った・・・
この時、洗濯板の便利さを知りましたよ~。使い方もね。
(あれ、上下があるのよね)
冷蔵庫なんて 勿論無いから
マーガリンとか 窓の脇とかに置いてあったりして
ありさんの行列・・・・になった。
蟻って 油にも来るんですね~。
しばらくして 買い出しにふもとの町まで
戦時中みたいな格好で行って
(モンペに長靴・・・みたいな)
もう 完全に 感覚・・マヒしてたかも。
でも 何週間か 1ヶ月くらいしてからかな?は 電気引いて 水道も引いたと思うんだけど・・・
住まいのある 山小屋から 少し降りたところに
もともと 引越す予定で建てた アトリエと
大きな お風呂が出来上がる寸前くらいだったと思う・・・
ここには 電気、ガス、水道が通ってたから・・・
大分日数が経ってからは ラジウム温泉?ラドン温泉?かなあ
要するに 放射線石を入れたお風呂が出来上がって
みんな お風呂にも 入れるようになった。
私たちは 100ページ読みきりの締め切りがあったので
山ごもりしながらでも 毎日新しいアトリエに通って 仕事してました。
この作品は 八郎坊天狗(ああ、もう漢字がわからないわ、どんな字だったかしら)
さまが登場したり 魔物が登場したりもする
平安朝くらいの時代ものでして かなり 不思議な作品でしたね。
当時のまんがでは 最先端のオフセット印刷で 掲載します!っていうんで
グレートーンとかが 出てしまうのね。
普通は 黒のハッキリした線しか 印刷に出ないのです。
だから グレーとかにしたい場合は スクリーントーンっていう シールみたいなのを 原稿の上から貼るの。
点々模様で 濃いのから薄いのまで あったりするんです。
他にも いろいろ 細かい模様のとかもね。
(最近、スクリーントーン目にしたら びっくりするくらい 進化してましたけどね~)
で、 このオフセット印刷だと
鉛筆の線とか 鉛筆で塗ったりしたくらいのが 印刷に出ちゃうのよ。
だから 下書きの線も しっかりちゃんと 消さないとダメだし
でも いつもとは違う 鉛筆のままの柔らかい線とかも OKなので
着物の柄とかは 結構凝れるんですよね。
(凝ると あとで ドツボにハマるんだけど、始めはまだ 余裕があるからね~)
私は だいたい着物の柄やら 髪の毛のつやつやっとした線とか
バックのお花とか 点描とかベタとか こまごましたものの担当だったので
この人物の着物は この模様で、とかを
考えて 先生にOKいただいたら それを描くのですねー。
男性の先輩は 主に風景とか
人物の下絵とか 入れてました。
人物にペン入れるのは 先生なの。
やっぱり 先生がペンを入れると 絵が生きるんですよね。
それは やっぱり見事でしたよ~。
線が違うんですよね。同じペン使ってるはずなのに・・・
生原稿って ホントに綺麗ですもん。
印刷すると かなり 落ちますから
いつも 印刷して100%伝わるように 120%の力で描きなさい!と
言われていました。
さすがに 一時、一世を風靡した先生ですから
プロ意識とかは スゴイものがありましたし
ほんとに いろいろ学ばせていただいたんですよ。
アトリエに 沢山張り紙がしてあって
「成功するまで努力すれば 必ず成功する!」
とかね。
「プロは 早くみごとに心をこめて」
とかもあったな~。
あとは 忘れちゃったけど・・・
当時30歳で 超美人でスタイルの良い先生でね~
どうしたら そんなにスタイル良くなれるんですか?って 聞いたことあるの。
だって ケーキだって召し上がるし
そしたらね、ケーキ食べる時には
ケーキに あそこに行くのよ、って言い聞かせて食べるのよ
ですって。
そういう メンタル面は もう、すごかったんですよねー。
先生の話すると 敬語になっちゃうの。
アトリエでは みんなそうだったからね。
かしこまりました!とかってお返事でね。
(でも 時々 「先生これはヤバイでしょうか?」なんて聞いちゃう子もいて
失笑をかってましたけど・・・)
でもね、 本当にそういう雰囲気を持った方でした。
宗方コーチと お蝶夫人を足して2で割って
ひろみちゃんの可愛さを足したみたいな・・・・
正直 あとにも先にも あんなオーラを持った方には
会ったこと無いですね。
と いう訳で またまた 続く・・・眠くなってきちゃったし、明日早いしね。
という事で。おやすみなさーい。
(つづく)
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随分あいだが空いてしまいまして・・・。
なかなか 続きがかけませんでしたが。
約3年 スタッフをさせていただいていた 某マンガ家先生ですが
約2年は 仕事が無くて。
それでも 会社制になっていたので 私たち4人いたスタッフは
クビにもならずに 毎日アトリエに出勤し
毎日 決まった時間までは 点描でお城やお花を描いたり
デッサンしたり 時には 庭の水まき、くさむしり
時には 出始めのオアシス100で 年表を作ったり 資料作り。
色んな経験をさせていただきました。
でも 最後の方が ちょっと信じがたい 面白い経験でしたねー。
やっと 実際のまんがの仕事が始まったころ。
だんだん 神がかりみたいになってきた・・・というか。
もともと 火わたりをしたり 出来たみたいだし
スタッフのスケジュールの中でも
ESPカードを使って 透視の訓練やら
テレパシーの訓練やらもやってましたしね。
会社制度になってたのは 先生の父上が 工芸品の会社をされていたので
私たちは その マンガ部門って ことだったんだけど
親族会社で 親戚関係で やってる会社だったのですね。
あるとき 先生のご両親も先生もが
あるお寺の奥さんが 神がかりになるとかで
すっかり 信じてしまったのでした。
いろいろな 方がかかってきて 霊界の人と話したり
おつげで 多分 株で得したり助けられたりしたみたいなんですよね。
そこら辺の経緯は 私たちには よく解らないけど
まあ 当時年収1億とか だったので
そうすると いろいろな人に出会ったりするんですね。
そんな 関係で知り合った信用できる方からの紹介だったのだと思うのですけど。
石の研究をされてる方と知り合って
その方の関係から ラジウム温泉を作る、って話にはなっていたんだけど
その温泉の関係で そのお寺の裏山の土地を買ってたようで
その辺から 始まったのかなあ。
でも 信用できる人だと思ってた人が 詐欺師だったりして
訳わからない 世界だったですけどね~。
でも その詐欺師の人のお陰?で
長島さんやら 芸能界の大御所の方やらともお知り合いになったりね。
とにかく
お寺の裏山に ラジウム温泉を作りはじめていて
アトリエもそちらに引越すことになって。
その頃、そのお寺の 修験者のかたたちと一緒に
高野山に白装束で行ったりしたんですよね。
それが 社員旅行だったの!
でも 記憶がさだかではないんですよね。
なんだか 夢みてたみたいで。 高野山は覚えてるし
実際白装束も 家に残ってたんだけど
バスで えんえん 山道を登って行ったら 突然町が出現した!のは
よく覚えているんだけど
あと どこに泊まったのやら・・・?
行き帰りのバスしか 覚えてないんだよね。泊まらなかったのかな?
もしかして 車中泊だった?・・・そうかもしれない・・・。
そして
ある時 地震のおつげがあったんですよね。
それも 関東大震災級の 大地震。
で 東京は壊滅状態になる、と。
でも わたしたちには 復興の使命がある、って言うんですよね。
おつげでね、 その裏山は 護ってくださるんだって。
いやー、実際
大地震で 家族とかみんな死んでしまうならば
当時まだ 独身だった訳だし それなら 実家に帰りたいじゃないですか!
知らない土地で 生き残りたくないですよ、正直・・・
はじめは まさか~、って思っていたんだけど
あまりに 真剣に おっしゃられると
だんだん 本当かも?って 思うものなんですよね。
だって 当時 読みきりの仕事あったんだけど
この原稿だって 東京に渡して 地震で どうにかなったら困るから、って
イザというときには ヘリの手配をしておいて 地方へ避難しますって確約で 原稿渡したんですよ。
この話は やめたのちに 何年か経ってから
ある喫茶店で たまたま 某、別の出版社に勤めてる女性の編集者の方と知り合った時に 一時有名な話だったわよ!と 聞かされたのですけどね。
とにかく 社長命令で
私たちスタッフは アパートの部屋を 地震にそなえて片付け
窓には 戦時中みたいに ガムテープを放射状に張って
ガラス割れに備え
大きな家具は倒し、食料3ヶ月分を備蓄
大きなロウソクも買占め
アトリエのピアノも倒して
裏山に 一族スタッフ全員で 避難したのでした。
地震も来ないのにね。
でも その時は 台風が来ていて 豪雨だったし
富士山噴火説も唱えられている時で。
ムードは 満点でしたよ。
私は 避難するすこし前くらいだったかなあ
実家に電話したんですよね。
これこれ こういう事になってるから とにかく そちらでも気をつけて、と。
でも 父に 大丈夫だよと言われて。
だんだん 私は 地震は 来てもこなくても
とにかく 私は どこででも 仕事するために来てるのだから・・・って
少し 冷静に なって見ていた気はしますね。
というのも
私は 前にも書いたけど 両親が熱心な生長の家なんですね。
神さまのおつくりになった世界は すばらしい
不完全に見えるのは 五感で見てるからで
ホンモノの世界は 死も病も苦も無い 完全な世界である ってね。
まあ ひとことで言うのは むずかしいけど
で、その 生長の家の山梨の講習会が
ちょうど 地震が来る!っていわれてる その日だったか 前後二日くらいの日程であったんですよね。
で わたし その 講習会で 午前中司会することになってたんです。
司会者が ドタキャンする訳にはいかないじゃないですか!
父に そんな話もしたと思うんだけど
そしたら そういう時に わざわざ 講習会があるってことは
地震はきっと来ないよ、って言うんですよ。
それもね、毎年 甲府で行われるのに その年に限って
甲府の会場がとれなくて
河口湖の町営体育館かなんかだったんですよね。
富士山、噴火するかも?っていう時にね。
まあ、実際 地震は来なかったわけで
それが どういう事なのかは 私には わからないけれど
ともあれ
山ごもり先から 私は 先生に どうしても 司会を休む訳にはいかないから
河口湖まで もし 死んでもいいから 行かせてください!って 頼むわけですよ。
で、結局 絶対午前が終わったら すぐ帰ってきなさい、って事で
出していただいたんですね。
まあ、実際は 何事も無いわけだから 人は 笑うでしょうけど
こっちは 真剣に山にこもってるわけですからね~。
当時 生長の家の仲間だった方にも その地震の話はしていましたから
消防の方もいたし
航空関係の方もいたんで
のちに いい訓練になったよ、イザという時の見直しができたよ、とは
言っていただきましたけどね~。
でも その日は 本当に大型台風が接近していて
結局 午後には電車がみんな 止まってしまったんですよね。
講習会も早めに切り上げになって。
で、私はどうやって帰ったかというと
これが また不思議なんだけど
とにかく どこだかまで行くバスが 最後だと
峠が越せないから 通行止めになる直前のバスに乗れて
でも 塩山に帰る私は 大月で降りたんですね。ひとり。
豪雨で 店はみんな閉まってて 誰ひとり 歩いてないし
駅はどこだか分からないの。
どうしよう?と 途方にくれているところに
男の人が家から出てきたので
駅はどこですか?って聞いたら 駅まで乗せて行ってあげるって言うのですよ。
普段だったら もちろん 知らない人の車になんて 絶対乗りませんけど
こんな豪雨の中 訳もなく 車出しに来ないだろうと思うし
もう どうしようも無かったんで 乗せていただいたんです。
そしたらね、電車は止まってるっていうの。
で、どこまで?っていうから 塩山に帰るって言って・・
経緯は忘れたけど
なんと そのおじさん 私たちが避難してるお寺の信者さんだったんです。
で、結局 お寺の裏山まで 送ってくださったわけなのです。
帰ったら 仲間のスタッフは 私が死んじゃうって泣いてるし
でも そこに のほほーんと 帰っていって。
一週間した頃かなあ、先生が 山を下りたかったら
降りてもいいです、っておっしゃるのよ。
私ともう一人 同じ神奈川の近所から 偶然一緒だった彼女と二人。
もう一人先輩の女性がいたんだけど
山にこもるって騒動になる前に やめて実家に帰ったので
当時 山にいたスタッフは あと男性ひとりの三人。
実家 が近所の彼女とは もうやめてもいいから とにかく実家に帰りたい!って言っていたから
その 先生の話は 渡りに船・・・だったんだけど
私は これは 人生の岐路だな、と思ったのね。
山を降りたら 即クビだな、って判ってた。
家には帰りたかったけど
私は きっともう地震は来ないだろう、って予感があったし
この先に 100ページの読みきりの仕事があったの。
で 私は仕事が無い時にやとってもらったスタッフだし
私は 仕事をしに来たわけだからね。
で、一晩悩んだんだけど さすがの先生だって
いきなりスタッフが 二人もやめたら 大変だろうと思ったので・・・
私は残る、って決断をしました。
年下の先輩だった 同郷の彼女は 翌日山を降り
そのままクビ。
それから 私のやまごもり生活が はじまりました。
親族一同で バンガローみたいな山小屋3棟だったかなあ、4棟あったかな
始めは台所なんて無くて
毎日 備蓄したカップラーメンを三度三度食べましたね。
下界は 普通の生活 送ってるんだけどね。
山にこもり始めたときは 夏休み中だったんだけど
じきに 新学期が始まって。
先生の甥っ子や姪っ子にあたる子供達が 数名いたので
学校では ちょっと問題になってたみたい。
でも はじめの1ヶ月くらいは 学校にも行かずに 山にこもってましたよ。
そのうち 山から通うようになったみたいだけどね。
私の車も 山の途中に置いてあったので
警察が尋ねてきたりもしましたし。
神奈川ナンバーだったから 余計にね。
摩訶不思議な山ごもり生活は まだ続く・・・
眠くなってきたし 寒くなってきちゃったから 続きは また今度ね。
(つづく)
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マンガの仕事を実際に始めたのは 私が入ってもう2年ちかくも過ぎたころだったでしょうか。
「鮮やかな瞬間(とき)」という 読みきり。
これは 春のお話で やたら 桜が出てきました。
桜担当?で もう桜ばっかり描いていたら
全然違う 点描で濃淡書いてるうちに てんてんてん・・・でいつの間にか桜を描いていたり。
まんがは 先生が ネームという まあ、お話の設計図?下書きかな・・・がまず出来ないことには 私たちの出番が来ないんですね。
ふきだしとセリフと 簡単な下絵が 書いてあるの。
それをもとに 下書き書いて、OKならペンを入れていくんですね。
あとは 分業。バックの建物や 花。洋服の模様、髪の毛、ベタと呼ばれる黒くぬりつぶす所をぬったり スクリーントーン貼ったり またそれを削って濃淡出したり。
締め切りまでは まさに、肉体労働。
出来上がるまでは 寝れません。
36時間労働、仮眠 1時間 とかね。
これは 「鮮やかな瞬間」の 扉絵かな。バラだけ 私が描いた。
ばら はほんとに よく描きましたね。
で、仕事あけて。眠いけど その前5日間くらい お風呂入る時間なかったりしているので
なんとしても 寝る前には お風呂入りたいし。
当時のアパートには シャワーは無いし、 今みたいにスイッチぽんで お湯が張れるわけも無く。
お水張って 沸かすんだけど
はい、寝てます。
で、ぼこぼこ、ゴーッ!って音で目が覚めて。
みごとに お風呂沸騰してます。
お風呂って 沸騰させると みごとにお釜の大掃除できるんですよ~!
もう お釜のドロドロ汚れが みごとに出てくる・・・(泣)
フタは 溶けかかってるし 水道のホースも溶けてくっついて。
なんとかしましたけどね・・・・
まあ、お風呂では その後も たびたび溺れそうになったりしてましたっけ。
どうしたって 寝ちゃいますよね、だって・・・。
その後は 連載のお仕事などもあり。
二年間の空白期間があって たっぷりまったり 描きダメできたので
こんなのや あーんなの・・・・
キレイなもの なんでも沢山描いておくよう言われて描いてあったもの。
日の目をみれるかどうか わからずに描いていたものだったので
1ページ全部 私の絵でうまった時は やっぱり 嬉しかったですね~!
でも まあね、先生の名前で載るからこその 原稿。
私が ただ描いても 一銭にもならないんですよね・・・
(つづく)
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昨日のコメント書いてたら
番外編書きたくなってしまって すみませーん。
山ごもり 書くと 長くなりそうなんだもん。
塩山に 住んでいたころ、 そう スタッフは男性一人に 女性が三人でした。
先生のおかあさまの姉妹が 近くに住んでいて
すぐ下の 妹さんが アパートを持っていたので
私ともう一人の子は そのアパートを 寮として 住んでいました。一番先輩の彼女は 別の所に部屋を借りていて。
私が来る前までは その2DKの一軒に 二人で暮らしていたようですが 女の子同士って 仕事も住まいも一緒だと ささいな 事であわなくなって 人間関係でやめてしまうから、ということで 私の時から 上下の部屋一軒ずつ 別に暮らすことになったのでした。
でも 不思議な事に その 一緒のアパートにいた 彼女。
私の実家の 隣の駅の出身で。
で、妹さんである大家さんも 結婚当初、うちの実家の2つ先の駅 に住んでいたそうで。
わざわざ 塩山で 出会わなくても?って感じでしたが 正直 あそこで 会わなければ 出会う事は無い人たちなんですね。
一年先輩の彼女は トシは 3つ下で。
絶対 学生時代に出会ったら 友達にはならないタイプ。
上下の部屋に住んでいましたが お風呂も別々では不経済だし、という事で 交替で沸かして入っていたので
結局 ほとんど 毎日一緒。
だから よくケンカしましたね。だって ことごとく 意見が違うんだもん。感覚もね。
でも、毎日夜中まで ケンカしてる うちに。
ああ、彼女は 虚勢張って生きているんだ、って事がわかってしまって。
私は のほほーん といい加減に生きているように見えるんだけど 結構 芯は強いんですよ。だから かなりな事があっても メゲない。弟が5人もいて 小さい子の世話もしてたって自負もあるから まあ私も生意気だったんだけど。
でも、彼女は 言う事は正論だし、強いんだけど なんていうか 武装してるんだよね。
本当は 弱くて自信ないのを 武装して 隠しているの。
そういう人って結構多いよね。
だから きっと 痛いんだよね。で、すぐケンカになってたんだけど。
分かってしまったら 彼女が 向かってきても
翻訳して 聞けるようになってしまって。
翻訳して聞けるようになると 結構 楽ですよね。
今も 子供たちが なんやかや 言ってても ああ「好き好き!」って言ってるのねーって。
まあ、こっちに都合いいように 翻訳してるかも しれないけどね。
でも、彼女のお陰で いろいろ 楽しいことも 教わったし。
なにしろ 教習所に行けたのは 彼女のお陰だったかも。
ウチの実家は当時誰ひとりとして 免許持ってる人いなくて。(神奈川の小田急沿線 駅近くに住んでいたら 車いらなかったですもの。当時は8人乗りの車なんて ほとんど無かったから ウチ 8人家族だったから全員乗れないしね^^)
でも 塩山に住んでいると 免許 必需品なの。
だって 塩山駅から 徒歩30分くらいかかるのね。
バスは8時に終バスで 駅まで行かないと 店なくて。
当時は まだ山梨には コンビニ無かったしね。
自転車だったんだけど 行きは一度も漕がずに駅に行かれるんだけど それって 帰りはずーっとダラダラ登り坂。
それで 二人で 塩山教習所に通いました。
アトリエでは 誰も甲州弁しゃべる人いなかったから それまで 山梨に方言があるって知らなかったの。
でもねー、教習所では!!
私 でも 神奈川生まれ神奈川育ちで 方言らしい方言無しで育ったせいか 方言大ー好きなの。
特に 子供が方言しゃべってるのって かわいいでしょ?
好きだから よく研究するしね。
よく覚えましたよー!そのうち、考える事が 方言になってきて。
いっちょし、やっちょし、食っちょし!ってね。(言うな、やるな、食べるな です)
考えるコトバが方言になってくると だんだん 使えるようになり。こうやって 外国語も覚えればいいのよねー。(でも 韓国語は 山ほど字幕で見たので 字幕見ると 出てくるようになってきたよ。単語だけだけどね)
今は 甲州弁の感覚 わからなくなってきてしまったけど しゃべってる人いると うつる!
それに イントネーションで 山梨出身の人は なんとなくわかるようになりましたねー。
のぶい とか しわい なんて言葉
どうにも 意味不明だったんだけど 甲州弁で話しているとだんだん意味わかるようになるんだね。
で 無事 免許もとって。車も彼女のパパが車関係の仕事だったもんで私の分も一緒に探してもらって。
とにかく 安い中古の軽で見た目はいいから エンジンがまともなのってことで。
ゴールデンウィークの渋滞のさなかに 神奈川から 車を連れて帰ってきて。(だから 時間はかかったけど 怖くなかったの。それぞれの車に 彼女のパパとママが分乗して付き添ってくれたしね。お世話になりました~!)
面白い車でしたよー。47年型のフロンテクーペ。370ccだったかな。バイクみたいなもん?
2サイクルで ガソリンと油で走るもんで すごい音と煙で、
私が実家に帰ると TVに雑音が出るとかで 帰ってきたのがすぐ判る!といわれたり
渋滞すると 水温上がってきちゃって エンストしそうになるし エアコンないから 窓全開にしてると 自分の排気ガスで 排ガス自殺しそうになるしね!
今では とても 走れない車でした。
でも 毎回 中央高速80キロでかっとんでました。いえ、それ以上出すと キンコン鳴るし ハンドルぶれるのよ!
トラックにあおられると こわかったなあ。
90キロなんて 出そうもんなら 後ろの座席からうしろが 取れて飛んでいくんじゃないかと思って 時々 手を伸ばして 確かめたほど!(笑)
ああ、車の話になると つきないんだけど...
ドアのロックがもともと 調子悪くて外からしかロックできなかったんだけど(おかげさまで鍵とじこめなくてすみましたが)
ある時とうとうドアがちゃんと閉まらなくなって。中のスプリングが折れていたらしく ドアは閉まるんだけど 開いちゃうの。しょうがないから ガムテープ貼って出かけたのですが
甲府の 酒折って所に行く途中に クランクになってる道があって そこ 曲がったとたんに ドアが わ~って開いちゃって。さすがに 小さな軽だったんで 思わず手を伸ばして押さえましたよ!
あとは ドア押さえながら運転しましたよー。(笑)
夜の中央高速も 怖かったわねー。
ボロの軽だもんで ヘッドライトが暗いのよ。なんか回りは真っ暗だから (当時の中央は あまり街灯もなかったの)
まるで 自転車のライトみたいな感じなの。誰も走ってないからルームミラーも全部真っ黒でね。
真っ黒な山と 正面にオリオン座が見えて。
カーステレオも無くて ラジオはよく入らなくて 静かで怖かったから 大声で歌って走ってました。^^
でも お陰さまで 私 現在にいたるまで ゴールド免許です。まあ ただ単に運がいい ってだけですけどね。
車さんは 傷だらけ なんだけど。(今も^^)
いつも 電柱とか フェンスとかと仲良くしてるもんで。
塩山のアパートに帰ってきて 車庫入れしてたら 側溝に落としたこともあったっけ...。ひどいもんです(泣)ごめんね 車ちゃん。でも 最後までよく走ってくれました。
座席が低くて ありんこが見えるくらいだったし 雨が降ると何故か足元 雨漏りするし
暖房のスイッチ 結局神奈川に戻るまで 何年もわからなくて 冬は寒くて ひざ掛けして 完全防備で運転しました。
(ある時、車で待ってるときに スイッチ押したりまわしたり してたのね。そしたら グラってなって 思わずスイッチにつかまって ひっぱったら ぼーっ!って。暖房が出はじめました!まさか ひっぱるとはね!)
ああ、 長くなっちゃいました。では また。
(つづく)
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私は 漫画の仕事のない時に 採用されたスタッフだったので
結局 漫画の仕事をするよりも 庭の草取りやらコケの草とり?(当時の先生宅はスギゴケの庭にしていたので ゼニゴケっていう うろこみたいなコケを よくフォークで除去しました~)やら 水撒き すももの収穫 あとはデッサンしたり ワープロうちこんだり。いろんなこと させていただきましたねー。
絵も描いたけどね。やめた後に 切り貼りで あ、私の描いたバラだ!って 使っていただいたりしてたので まあ少しは役にはたったんでしょうけど?
結局漫画の仕事したのは 最後の半年くらいだったでしょうかね。
うちの先生は 当時 多分少女漫画家では 最高くらいの原稿料とってたようなので 年収もすごかった訳です。
そうすると 色々変わった方と出会うんですね。
多分どなたかの紹介なんでしょうけど 石の研究してる先生にめぐり逢って。 この方は ホンモノのスゴイ方でしたが あの当時で80代の方だったですね。
戦争当時 マッカーサーから許可されて(と書いてあったと思います) 放射線石の研究とかで マレーシアだったり どっかのジャングルだったりに行って 見聞きされた体験を びっしり手書きで書かれていて、 もちろん 旧仮名旧漢字でしたから
それを ワープロに打ち直す作業を よくしましたね。
明治の方なので 同じ日本語のはずなのに 知らない単語とかよくあって。でも読みさえわかれば ワープロ「オアシス」の辞書はおりこうで ちゃんと変換してくれて びっくりしました。
あの当時は 親指シフトで しゃべる速さで 打てたもんです。(今はもう 使えないトホホな自慢....)
その関係で 放射線石のお風呂を作るとか いろいろな事に発展していき
結局 間に入った人にだまされたり いろいろあり。(これはもっと後でわかったことですけどね)
だんだん 不可思議な世界に。
やっと 漫画の仕事を再開したころ
神がかりになる方と知り合って 私たちスタッフは知らない間に すっかり そこのお寺の裏山に お風呂の施設を作ることになっていて。アトリエも引越すことになっていました。
私が連れていっていただいた 最後の社員旅行は そこのお寺の方たちと 「高野山」に白装束で。でしたね~。
でも高野山、すごかったですよ。
もうそれは深い山の中に 突如として 町が現れるんですもの。
昔の人は 一体 これをどうやって造ったのかと 本当 不思議でした。
そして 漫画家一族山ごもり事件?と続くのですが
長くなるので それは またこの次に。
(続く)
これは 美術学校時代に描いた 玉三郎。点描です。
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nob63hさんのところの 桃を見せていただいて
すっかり 山梨が懐かしくなりました。
もう27年前...になるのかな。
中学の頃から 「漫画家になる」と思い込んだ私、高校でる時に 某○○先生のところに弟子入りしようと 勝手に決めて。
そのためには 美術学校くらいでないと あの先生のところで使いものにならないだろう、と 美術選択してなかったんだけど 美術学校に進学しました。
そして そこ卒業する時。
もちろん スタッフ募集なんてしてませんでしたが
だって 先生のところに行くと決めて 美術学校行ったんだもん、あきらめる訳には いきません。
で、いろいろ 調べて 直訴しました。
思い込み ってスゴイですよね。
無事、スタッフになる事になり、当時○○先生は 塩山にお住まいだったので 私も塩山の住人になりました。
まわり中 桃とすももの果樹園。
その頃 長く続いた 某○○をねらえ! が最終回を迎えた後で 連載も 何もない時。
ホントだったら スタッフなんて 新たに取る時ではなかったと思うのだけど....。
毎日 アトリエに出勤しては お花やら 時間のかかる点描やらの 描きダメ していました。
その時に フルール っていう お花の百科事典っていうのかしら?14巻くらいあったかなあ。牧野某?っていう農学博士だったかな?のコメントが結構面白くて
お花を描きながら よく読みました。
それで、結構 お花にくわしくなりましたねー。
エリザベス朝の頃の 未完の連載もあったので
その頃の 資料読んだり。
まんが っていうのは 誰が読むかわからないし
なにしろ 子供は 書かれているものを信じてしまうから ウソを書いてはいけない!との 先生のポリシーがあり でも あまりヒドクて その通りには描けないことがあっても ちゃんと知らないといけない、という事で
エリザベス朝の頃の歴史や風俗
それに いずれ 武田信玄の話も描くから と信玄公のころの資料読んだり お城描いたりね。
先生ご自身は ものすごい読書家で 図書館のように膨大な資料 全部読破されていたようでした。
当時 まだ30になったばかりくらいだった先生は 多分 年収 億を超えていたのではないかな。
収入によって 人は 出会う人が変わるんだなーという事を 目の当たりに見せていただきましたねー。
当時 外車くらいの値段がした 富士通のオアシス100っていう 出始めのワープロが 途中から来て
スタッフみんなで 親指シフト覚えて 資料やら 年表やら 打ち込みました。
何故か 易経 なんてのも 読まされて
漢文 ワープロで打ち込んだりねー。まだ16ドットで 上下点とか レ点とか 作って登録したりして。
それから 何故か ESP能力の訓練?もやった。
ESPカードで 毎日透視の訓練やら テレパシーの訓練もね。不思議に毎日やると カードが かなりの確率で見えるようになったりするの。
連載とか なかったからできた事だけどね。
実際に まんがの仕事 やりはじめたのは 結構経ってからでした。
(つづく)
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